未成年事件

女子高生コンクリート詰め殺人事件 宮野、湊、小倉

1988年末から1989年にかけて昭和最後にして最悪の事件が発生しました。
今回はその一件についてまとめていきます。

被害者女子高生Hさんの生い立ち

1971年1月18日埼玉県八潮市で Hさんという女の子が生まれました。
Hさんはすくすくと成長していき、近所でも評判の良い女性になっていったそうです。

そんな彼女は校内でも真面目な生徒として知られており成績は優秀で欠席することもほとんどありませんでした。

高校3年生になったHさんは卒業後の進路を就職にしており在学中に就職先も決まっていたようです。

卒業をひかえた彼女は学校の友人だとともに卒業旅行の計画を立てていました。

その中で大体の費用も決まったため、それからのHさんは地元を八潮市内にある
プラスティック成形工場でのアルバイトを始めています。

頻度は週に2回ほどだったそうです。

そのようにして友人との卒業旅行を楽しみに頑張っていた彼女を最悪の悲劇が襲うこと
となります。

事件概要

それは1988年11月25日のことでした
この日 Hさんはアルバイトへと向かっています。
そしていつものように仕事をこなしていました。

しばらくして勤務時間を終えた彼女は自宅に帰るため自転車にまたがります。
そしてまっすぐに自宅へと自転車を走らせていきました。

その道中突如として自転車をこぐHさんに衝撃が走ります。

 

それによって彼女は自転車ごと転倒してしまいました。ふと横を見るとそこには見知らぬ男が立っています。

どうやらこの男に自転車ごと蹴り飛ばされたようです。

当然ながらHさんは男に恐怖しました。

果たしてこの男は一体何者なのでしょうか
それを把握するためには2時間ほど時間をさかのぼらなければなりません。

2人の少年がターゲットを狙っていた

Hさんがまだアルバイト先の工場にいた時刻である夕方頃、八潮市内には東京足立区から遠征に来ていた2人の不良少年の姿がありました。

一人は当時18歳の宮野裕史、もう一人は当時15歳の湊伸治という名の少年です。

当時の2人は八潮市内でひったくりか強姦をしようと考えていました。

そこで彼らはそれぞれ原付バイクに乗り、ターゲットを探すためにあたりを徘徊していきます。

その中で彼らの目に止まってしまったのがアルバイト先から帰る途中のHさんだった
のです。

宮野が湊へ指示をだしターゲットに接触

彼女のことを目にした宮野は港に対して、あの女を蹴っ飛ばしてこいと指示します。

これを受けた湊は、言われたとおりにHさんの方へと近づいて行き自転車に乗っていた彼女を蹴り倒したのです。

その上で湊はHさんを脅しつけます。

そのようにして彼女を一通り怖がらせたところで、港はその場を後にしました。

その直後、赤の他人を装った宮野がHさんに近づいていきます。

そして怯える彼女に対して味方であるかのような振る舞いを見せました。

彼はHさんにこう言い聞かせます。
今君を蹴っ飛ばした奴に俺もさっきナイフで脅された。

一人では危ないから家まで送ってやる。

すべてはこの宮野こそが仕組んだことだったのですがそんなことを知らないHさん
は彼の言葉を信じてしまいました。

港という明らかな恐怖の対象がいたことで同じく被害者だと名乗ってきた宮野のことは
すっかり信用してしまったのです。

彼女は言われるがままにバイクの後ろに乗ってしまいます。そうしてHを乗せたバイク
は人気のない倉庫へと走っていきました。

宮野は急変。ヤクザだと脅す

そうして倉庫内に入ると宮野はさっきまでと態度一変させ、次のように言い放ったのです
これはさっきのやつの仲間でお前を狙っているヤクザだ。

俺は幹部だから言うことを聞けば助けてやる。

そのようにして宮野はHさんのことを脅しつけます。

そして、彼女に関係を迫りました。
Hさんは自身が置かれた状況をここでやっと理解したのです。

その後彼女は宮野が呼び止めたタクシーに押し込までそのままホテルに連れ込まれてしまいます。

ここではタクシーで移動しているので運転手に助けを求めれば良かったようにも思え
ますがHさんはそれをしようとしませんでした。

おそらくは倉庫で宮野が自身を暴力団の幹部だと名乗った事がが効いていたの
でしょう。

まだ高校も卒業していない少女にとってその言葉がどれほどの恐怖だったのかは
計り知れません。

そのためHさんは抵抗することができませんでした。

彼女はそのままホテルの一室で宮野に乱暴されてしまいます。

小倉と合流事件は最悪な方向へ

犯行後、宮野は不良グループのたまり場になっていた湊の自宅に電話をかけ
自身のしたことを自慢げに話していました。

かけた先は湊の自宅でしたが、このとき電話を受けていたのは湊ではなかったそうです。

実際に受話器を手にとっていたのは当時17歳の不良少年小倉譲でした。

宮野から電話で話を聞いた小倉は女を返さないでくださいと頼み込んでいます。

彼のこの一言によって事件は最悪の方向へと進んでいってしまいました。

 

宮野は小倉と待ち合わせをしHさんをホテルから連れ出します。
待ち合わせ場所には宮野と小倉のほかにも2人の不良少年の姿が
いました。

一人は湊伸治でもう1人は宮野からの電話を小倉が受けた時に一緒にいた当時
16歳の渡邊恭史という少年です。

そこで彼らは合流したわけですが、その時に宮野は3人に対して自分がヤクザの幹部だと
いう設定で脅しているから話を合わせるようにと耳打ちしています。

これを小倉たちは聞き入れHさんを連れた4人は日付が回った翌26日の午前0時半ごろに公園へと向かいました。

公園に着くと宮野は飲み物を買ってくるといって小倉を誘い出します。

Hさんのもとには監視役として湊と渡邊の2人が残されていました。

3人から離れたところに移動すると宮野は小倉に対して、これからどうするかを相談します。

これに対し小倉はサラッちゃいましょうなどと口にしたようです。

その言葉を受けて宮野はHさんを監禁しようと決めました。

湊の家で監禁さらなる悲劇が

話を終えたふたりはHさんらのもとへと戻り、別の公園に移動しはじめます。

その道中、宮野と小倉は湊に監禁計画を話し、その場所として彼の自室を使う了承を得ました。

その上で宮野はHさんに迫り、お前はヤクザに狙われている。

仲間がお前の家の前をうろうろしているからかくまってやるなどと言って、
再び彼女を脅しつけます。

宮野がヤクザの幹部だと信じきっていうHさんはこの嘘も信じてしまいました。

そうして4人は彼女を湊の部屋に監禁したのです。

そしてこの日から地獄のような日々が始まりました。

宮野らは1カ月以上にわたりHさんに対して、

・集団での強姦
・陰部にマッチを挿入し日をつける
・逃げたとして顔面への殴打
・肛門へガラス片を出し入れしたり
・シンナーを吸わせ、ウイスキー一気飲みさせたり
…まだまだむごい仕打ちがたくさん…です。。。

詳しく知りたい方はこちらをごらんになってください。

wikiペディア

最悪の仕打ちをし続けたのです。

そして帰らぬ人に

少年らによる容赦のない仕打ちが続いた結果、
監禁開始から40日が経った1989年1月4日にHさんは息を引き取ってしまい
ました。

そのことに気が付いた少年らは事件の発覚を恐れ彼女の冷たくなった体をどこかに捨てようと計画します。

そして午後6時頃少年
らはHさんの体を毛布で包み、大型の旅行かばんに入れてガムテープを巻きつけまし
た。

その上で宮野が以前働いていた職場からトラックとセメントを借りてきます。

さらに現場近くの建材店からツナやブロックを盗み出しました。

それから宮野らはドラム缶を用意し、そこにHさんの体が入れられた鞄と
コンクリートを流し込んだのです。

それに加えて結んできたブロックやレンガを入れることでドラム缶の中身を固定しまし
た。

そうして中を固めるとドラム缶全体に黒色のビニールをかぶせトラックに担ぎ上げます。

車内に乗り込んだのは宮野小倉湊の3人でした
3人は午後8時頃に電場を出発します。
彼らが乗ったトラックが向かった先は東京都江東区若洲の埋め立て地でした。

3人はそこにドラム缶を置いていきます。

当時そこには不法投棄が多く目立つことなく捨てることができると考えたのです。

実際事件がすぐに発覚することはありませんでした。
しかし少年らが犯した犯罪はこの1件だけではなかったようです。

少年達は別の事件で逮捕そこから明るみに

彼らは以前にも暴行事件やひったくりを繰り返していました。

これらに関する容疑で宮野と小倉は警察に逮捕されます。

その後2人は少年鑑別所で余罪について厳しい追及を受けることとなりました。

そうして行われた取り調べの中でついにHさんの事件が明るみに出ることとなった
のです。

 

少年らの供述を受けた警察が埋め立て地を捜索したところ、
1989年3月29日にコンクリート詰めされたドラム缶の中から変わり果てた姿のHさんが発見されます。

これにより事件に関与した人物は次々と逮捕されていったようです。

そしてそれから裁判にかけられることなりました。

裁判が行われた

1990年7月初日東京地裁で第1審の判決公判が開かれます。

そこで下された判決は主犯格の宮野に懲役17年、他の3人の少年には懲役3年から10
年を不定期刑というものでした。

この判決を受け検察側は刑が軽すぎるとして控訴します、

こうして控訴審が始まりました。

そこで最終的に下された判決は宮野に懲役20年小倉に、懲役5年以上10年以下の不定期刑湊に懲役5年以上9年以下の不定期刑渡邊に懲役5年以上7年以下の不定期刑というものだったようです。

この判決に対して宮野小倉湊の3人は上告しなかったためそのまま刑が確定しています。

一方で渡辺だけは量刑不当として最高裁に上告しています。

ですが最高裁がこれを棄却したため渡邊に関しても控訴審での判決が最終的なものと
なりました。

そうしてそれぞれの刑が確定したわけですがこの判決に対して世間からは疑問の声が
多くあがっています。

事件の内容があまりに広すぎたことからそれに対する系にしては軽
すぎるとされたのです。

ただ本事件の判決には加害者の年齢が関係していました。

犯行時4人は全員が未成年だったのです。

そのため彼らは少年法によって守られることとなりました。

それが判決にも色濃く影響していたのでしょう。

裁判が結審した後4人はそれぞれ刑務所に収監されています。

そして彼らが逮捕されたのは1989年のことでした。

そのため現在では4人全員が刑期を終えて出所しています。

もっとも罪が重かった宮野に関しては20年間服役したわけですが、それで彼らが反省
することはありませんでした。

なんと出所した4人のうちの3人が再び事件を起こして逮捕されているのです。

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